2016年07月15日
【座右の銘1】本来的な才能とは自分ができることを信じることだ(ジョン・レノン)ビートルズ キャリアコンサルタント
座右の銘であり、自分を勇気づける言葉・価値観をご紹介します。滋賀咲くブログ(滋賀咲くblog)(仮タイトル)びわ湖のほとり・ひこにゃんが住む城のある町の【ジョブ・カード作成アドバイザー】&【2級キャリアコンサルティング技能士(国家資格)】&【キャリアコンサルタント(国家資格)】登録審査完了→登録証の交付待ち 改め、(仮タイトル)滋賀咲くブログ 【夢支援】 滋賀県彦根市在住・経営&キャリアコンサルタントの存在証明【キャリアデザイン】-ジョブ・カード作成アドバイザー&キャリアコンサルタント&2級キャリアコンサルティング技能士-の管理人・CareerConsultant Sou-Keiは、滋賀県・彦根市にある、彦根市立●中学校を卒業しました。今を去ること、、、○○年前に。
この夏、お盆に何十年ぶりに彦根市立●中学校の同窓会があります。
彦根市立●中学校の卒業記念に、クラスメートにルーズリーフを一枚ずつ渡して、
メッセージを書いてもらうようお願いしました。
(ノート等の場合、一人ひとり順番に回していると時間がかかると想ってルーズリーフにしました。)
そこに、あるビートルズ好きの友人が書いてくれた好きな言葉として、
元ビートルズのジョン・レノンの言葉
◆『本来的な才能とは、
自分ができることを信じることだ』
を書いてくれました。どこで語った、書かれた言葉かはわかりませんが、
とても印象的な言葉で、以後、大切に心にしまっています。
ん?そのリーズルーフは、、、、今残ってるかなぁ、、、
引っ越しの時どうしたかな・・・
ジョン・レノン フォト額「ロックンロール」
ジョン・レノン・ミュージアムで販売していたもの。
施設も、もうありませんので、貴重なコレクション。
何といっても人気のハンブルク時代のジョン!
【第2回目の入荷!】ホーナー・ハーモニカ「ジョン・レノン シグネイチャー・モデル(イマジン)」
『ジョンの魂』/CD
アーティスト:ジョン・レノン
曲目タイトル:
1.マザー(母)
2.しっかりジョン
3.悟り
4.ワーキング・クラス・ヒーロー(労働階級の英雄)
5.孤独
6.思い出すんだ
7.ラヴ(愛)
8.ウェル・ウェル・ウェル
9.ぼくを見て
10.ゴッド(神)
11.母の死
イマジン/ジョン・レノン[SACD][紙ジャケット]
1.イマジン
2.クリップルド・インサイド
3.ジェラス・ガイ
4.イッツ・ソー・ハード
5.兵隊にはなりたくない
6.真実が欲しい
7.オー・マイ・ラヴ
8.ハウ・ドゥ・ユー・スリープ(眠れるかい?)
9.ハウ?
10.オー・ヨーコ
The Day John Lennon Died ジョン・レノン最後の日
世界中が、喪に服して、世界を結びつけた瞬間、1980年12月8日。世界中に影響を与えたジョン・レノン最後の日。BAFTA受賞ディレクターによって、当時のラジオ、TVニュースや、オノ・ヨーコを初めとするジョン・レノンの周りの人達からの貴重なインタビューで構成された、その最後の一日を解き明かした名作ドキュメンタリー。
『The Day John Lennon Died ジョン・レノン最後の日』/DVD
アーティスト:ジョン・レノン/ヨーコ・オノ/ジャック・ダグラス ほか
出演:ジョン・レノン/ヨーコ・オノ/ジャック・ダグラスほか
「The Day John Lennon Died ジョン・レノン最後の日」
ジョン・レノン(Wikipediaより抜粋)
生い立ち
幼年期
1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリヴァプールで誕生。出生時、父・アルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在。母・ジュリアも他の男性と同棲していたので母親の姉・メアリー(ミミ伯母)夫婦に育てられる。ミドルネーム(ウィンストン)は当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルに因む。
1946年、父・アルフレッドが帰国し、父親に引き取られ数週間一緒に暮らしたが母・ジュリアがジョンを連れ戻す。しかし母と暮らすことはできず、再びミミ夫妻に育てられる。父は蒸発。
ビートルズ・デビューまで
少年時代
実の両親に育てられなかったからか少年時代は反抗的でケンカ騒ぎを起こす事が多かったという。1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。
1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。この頃、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。
1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は、1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表された)。当時からギター・ヴォーカルを担当していたが、前述の通り、実際に教わったのはバンジョーのコードだったので弦を4本(あるいは5本)しか使っていなかったという。
ポールとの出会い
3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[2]。10月18日にポールはクオリーメンに加入した。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリーなどアメリカのロックンロールに夢中になった。
ジョージ・ハリスンとの出会い
1958年2月、ポールにジョージ・ハリスンを紹介される。間もなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。
母の死
1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはね死亡させる。[3]母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、既に(1956年、14歳の時)母を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。
1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art) に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。
ハンブルク
この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。この頃、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。
1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と変えていった。8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。
1961年4月、スチュアートは画家に専念するためハンブルクにて脱退。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向、ヘフナー500/1を演奏することになる。[4]また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るが間もなく脳腫瘍で死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」を録音。
ブライアン・エプスタインとの出会い
1961年12月、ジョン達は「マイ・ボニー」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者たるブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。1962年元日に、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格。6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月16日にピートを解雇。以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーたるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日(金)「ザ・ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。
最初の結婚
1962年8月23日、シンシア・パウエルと結婚。
1963年4月8日に長男・ジュリアン・レノンが誕生した。しかし、両親と生活したことが無いジョンは、ジュリアンにどう接して良いか分からなかったので「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか? やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。
ジョンとヨーコ
1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『How I Won The War?』(日本では1993年にビデオで初めて販売。邦題: 『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで、彼は後に2人目の妻となるオノ・ヨーコに出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいた事もあり日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅や空の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。
2人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間にヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通していた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請し11月8日に離婚が成立。
ベッド・イン風景、(奥左)ジョン・レノン、(奥右)オノ・ヨーコ、(中央)ティモシー・リアリー。「平和を我等に」のレコーディング中(1969年)
1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。
結婚後間もなくジョンは「ミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルに因み付けられた)をOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められずパスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。
彼らは多くのマスコミから奇妙なカップルとして格好の餌食にされる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やヴェトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスのヴェトナム戦争支持を受け大英帝国勲章を返上。「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」 (ともに1969年) などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 'War Is Over (If You Want it)'(1971年)の街頭広告を行った。
ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限大の宇宙』(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。
2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発売。
ソロ・キャリア
ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。1969年から1976年までプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いたるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。
1969年、シングル『平和を我等に』、『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVD『スウィート・トロント』に収録されている。
1970年代
ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した「インスタント・カーマ」を発表、「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。
1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。
1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した (発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここで多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動に積極参加した。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)などが代表的なものである。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と左翼的なフレーズを立ててアメリカ国内でデモ行進をした。この時期のFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[5]。この様な理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続をとり続けた[6]。
1972年2月に、テレビ番組「マイクダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックをつとめた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーと共に、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほかビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。
1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供しジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム、『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、個人秘書のメイ・パンとともにロサンゼルスで生活を始め、いわゆる『失われた週末』をリンゴやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。
1974年3月からはハリー・ニルソンの『プシー・キャッツ』をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』 (Walls And Bridges) を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、『イマジン』以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」 (全米1位)、「夢の夢」 (同9位) がそれぞれシングルカットされた。
同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には『失われた週末』を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした (全米6位)。
1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイとの親交も深まり、ボウイの『ヤング・アメリカン』 (3月発表) でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニヴァース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタヴューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集『シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡』を発表した。
1976年にリンゴのソロ・アルバム『ロート・グラビア』に「クッキン」を提供した後、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。
1980年代
晩年は政治的・思想的に保守化しラジカリズムを放棄、ロナルド・レーガンの支持者だったと、最晩年2年間のアシスタントであるフレッド・シーマンが記録映画「ビートルズ・ストーリーズ」の中で証言、反響を読んだ。ただし、フレッド・シーマンはダコタハウスからジョンの日記をヨーコに無断で持ち出して訴えられるなど、自伝作家のアルバート・ゴールドマンと並んでいかさま詐欺師であり、信用は出来ない。
1980年6月にバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタヴューの中で否定している (クイーンの「愛という名の欲望」、ポール・マッカートニーの「カミング・アップ」に触発されたという説もある)。
1980年11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米2位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米10位)などの大ヒット曲が生まれ、アルバムも全世界で500万枚以上を売り上げた。没後、1982年のグラミー賞年間最優秀アルバム賞を2人で獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。
この夏、お盆に何十年ぶりに彦根市立●中学校の同窓会があります。
彦根市立●中学校の卒業記念に、クラスメートにルーズリーフを一枚ずつ渡して、
メッセージを書いてもらうようお願いしました。
(ノート等の場合、一人ひとり順番に回していると時間がかかると想ってルーズリーフにしました。)
そこに、あるビートルズ好きの友人が書いてくれた好きな言葉として、
元ビートルズのジョン・レノンの言葉
◆『本来的な才能とは、
自分ができることを信じることだ』
を書いてくれました。どこで語った、書かれた言葉かはわかりませんが、
とても印象的な言葉で、以後、大切に心にしまっています。
ん?そのリーズルーフは、、、、今残ってるかなぁ、、、
引っ越しの時どうしたかな・・・
ジョン・レノン フォト額「ロックンロール」価格:5400円(税込、送料別) |
ジョン・レノン・ミュージアムで販売していたもの。
施設も、もうありませんので、貴重なコレクション。
何といっても人気のハンブルク時代のジョン!
ホーナー・ハーモニカ「ジョン・レノン シグネイチャー・モデル(イマジン)」価格:8640円(税込、送料別) |
ジョンの魂 [ ジョン・レノン ]価格:2571円(税込、送料無料) |
アーティスト:ジョン・レノン
曲目タイトル:
1.マザー(母)
2.しっかりジョン
3.悟り
4.ワーキング・クラス・ヒーロー(労働階級の英雄)
5.孤独
6.思い出すんだ
7.ラヴ(愛)
8.ウェル・ウェル・ウェル
9.ぼくを見て
10.ゴッド(神)
11.母の死
【送料無料】[枚数限定][限定盤]イマジン/ジョン・レノン[SACD][紙ジャケット]【返品種別A】価格:3588円(税込、送料無料) |
1.イマジン
2.クリップルド・インサイド
3.ジェラス・ガイ
4.イッツ・ソー・ハード
5.兵隊にはなりたくない
6.真実が欲しい
7.オー・マイ・ラヴ
8.ハウ・ドゥ・ユー・スリープ(眠れるかい?)
9.ハウ?
10.オー・ヨーコ
The Day John Lennon Died ジョン・レノン最後の日 [ ジョン・レノン ]価格:3693円(税込、送料無料) |
世界中が、喪に服して、世界を結びつけた瞬間、1980年12月8日。世界中に影響を与えたジョン・レノン最後の日。BAFTA受賞ディレクターによって、当時のラジオ、TVニュースや、オノ・ヨーコを初めとするジョン・レノンの周りの人達からの貴重なインタビューで構成された、その最後の一日を解き明かした名作ドキュメンタリー。
『The Day John Lennon Died ジョン・レノン最後の日』/DVD
アーティスト:ジョン・レノン/ヨーコ・オノ/ジャック・ダグラス ほか
出演:ジョン・レノン/ヨーコ・オノ/ジャック・ダグラスほか
「The Day John Lennon Died ジョン・レノン最後の日」
ジョン・レノン(Wikipediaより抜粋)
生い立ち
幼年期
1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリヴァプールで誕生。出生時、父・アルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在。母・ジュリアも他の男性と同棲していたので母親の姉・メアリー(ミミ伯母)夫婦に育てられる。ミドルネーム(ウィンストン)は当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルに因む。
1946年、父・アルフレッドが帰国し、父親に引き取られ数週間一緒に暮らしたが母・ジュリアがジョンを連れ戻す。しかし母と暮らすことはできず、再びミミ夫妻に育てられる。父は蒸発。
ビートルズ・デビューまで
少年時代
実の両親に育てられなかったからか少年時代は反抗的でケンカ騒ぎを起こす事が多かったという。1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。
1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。この頃、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。
1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は、1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表された)。当時からギター・ヴォーカルを担当していたが、前述の通り、実際に教わったのはバンジョーのコードだったので弦を4本(あるいは5本)しか使っていなかったという。
ポールとの出会い
3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[2]。10月18日にポールはクオリーメンに加入した。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリーなどアメリカのロックンロールに夢中になった。
ジョージ・ハリスンとの出会い
1958年2月、ポールにジョージ・ハリスンを紹介される。間もなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。
母の死
1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはね死亡させる。[3]母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、既に(1956年、14歳の時)母を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。
1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art) に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。
ハンブルク
この頃からリヴァプールだけでなく、ハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。この頃、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。
1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と変えていった。8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。
1961年4月、スチュアートは画家に専念するためハンブルクにて脱退。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向、ヘフナー500/1を演奏することになる。[4]また、ジョンはこの時、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人アストリッドとハンブルクに残るが間もなく脳腫瘍で死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」を録音。
ブライアン・エプスタインとの出会い
1961年12月、ジョン達は「マイ・ボニー」を買いに来た客からビートルズを知ったレコード店経営者たるブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。1962年元日に、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格。6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月16日にピートを解雇。以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーたるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日(金)「ザ・ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。
最初の結婚
1962年8月23日、シンシア・パウエルと結婚。
1963年4月8日に長男・ジュリアン・レノンが誕生した。しかし、両親と生活したことが無いジョンは、ジュリアンにどう接して良いか分からなかったので「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか? やり方が分からないんだ』とジョンに聞かれたことがある」とポールは語っている。ジュリアンも後に「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と語っている。
ジョンとヨーコ
1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止した後、ジョンは映画『How I Won The War?』(日本では1993年にビデオで初めて販売。邦題: 『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリーで、彼は後に2人目の妻となるオノ・ヨーコに出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいた事もあり日本や東洋文化に興味を持っていたジョンは、禅や空の概念に強い好奇心を寄せており、これを色濃く反映させたヨーコのアートに強い興味を示した。ヨーコの個展に出掛けたレノンが見た ヨーコの作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。
2人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間にヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、ヨーコと文通していた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請し11月8日に離婚が成立。
ベッド・イン風景、(奥左)ジョン・レノン、(奥右)オノ・ヨーコ、(中央)ティモシー・リアリー。「平和を我等に」のレコーディング中(1969年)
1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。
結婚後間もなくジョンは「ミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルに因み付けられた)をOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められずパスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。
彼らは多くのマスコミから奇妙なカップルとして格好の餌食にされる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やヴェトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスのヴェトナム戦争支持を受け大英帝国勲章を返上。「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」 (ともに1969年) などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 'War Is Over (If You Want it)'(1971年)の街頭広告を行った。
ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限大の宇宙』(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。
2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発売。
ソロ・キャリア
ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。1969年から1976年までプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いたるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。
1969年、シングル『平和を我等に』、『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVD『スウィート・トロント』に収録されている。
1970年代
ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した「インスタント・カーマ」を発表、「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。
1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。
1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した (発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここで多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動に積極参加した。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)などが代表的なものである。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と左翼的なフレーズを立ててアメリカ国内でデモ行進をした。この時期のFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[5]。この様な理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続をとり続けた[6]。
1972年2月に、テレビ番組「マイクダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックをつとめた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーと共に、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほかビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。
1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供しジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム、『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、個人秘書のメイ・パンとともにロサンゼルスで生活を始め、いわゆる『失われた週末』をリンゴやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。
1974年3月からはハリー・ニルソンの『プシー・キャッツ』をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』 (Walls And Bridges) を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、『イマジン』以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」 (全米1位)、「夢の夢」 (同9位) がそれぞれシングルカットされた。
同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には『失われた週末』を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした (全米6位)。
1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイとの親交も深まり、ボウイの『ヤング・アメリカン』 (3月発表) でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニヴァース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタヴューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集『シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡』を発表した。
1976年にリンゴのソロ・アルバム『ロート・グラビア』に「クッキン」を提供した後、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。
1980年代
晩年は政治的・思想的に保守化しラジカリズムを放棄、ロナルド・レーガンの支持者だったと、最晩年2年間のアシスタントであるフレッド・シーマンが記録映画「ビートルズ・ストーリーズ」の中で証言、反響を読んだ。ただし、フレッド・シーマンはダコタハウスからジョンの日記をヨーコに無断で持ち出して訴えられるなど、自伝作家のアルバート・ゴールドマンと並んでいかさま詐欺師であり、信用は出来ない。
1980年6月にバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタヴューの中で否定している (クイーンの「愛という名の欲望」、ポール・マッカートニーの「カミング・アップ」に触発されたという説もある)。
1980年11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米2位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米10位)などの大ヒット曲が生まれ、アルバムも全世界で500万枚以上を売り上げた。没後、1982年のグラミー賞年間最優秀アルバム賞を2人で獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。
ボブ・ディラン2【ボブ・ディランの作品】【ボブ・ディランの受賞リスト】グラミー賞 アカデミー賞 ノーベル文学賞
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Posted by CareerConsultant Sou-Kei at 15:48│Comments(0)
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