【blogram】のカテゴリマイスターが、9月30日をもって終了するってことで、前夜祭です。
滋賀咲くブログ(滋賀咲くblog)びわ湖のほとり・ひこにゃんが住む城のある町の【ジョブ・カード作成アドバイザー】&【2級キャリアコンサルティング技能士(国家資格)】&【キャリアコンサルタント(国家資格)】登録審査完了→登録証の交付待ち 改め
滋賀咲くブログ 【夢支援】 滋賀県彦根市在住・経営&キャリアコンサルタントの存在証明
【キャリアデザイン】 -ジョブ・カード作成アドバイザー&キャリアコンサルタント&2級キャリアコンサルティング技能士- 及び、
CareerConsultant-SKC@SouKeiCareerCon の各々30位までを一覧表にしました。
No カテゴリ blog Twitter 滋賀咲くブログ 【夢支援】 滋賀県彦根市在住・経営&キャリアコンサルタントの存在証明【キャリアデザイン】 −ジョブ・カード作成アドバイザー&キャリアコンサルタント&2級キャリアコンサルティング技能士− CareerConsultant-SKC(@SouKeiCareerCon) - Twilog 1 山本耕史 3位
2 楽しんご 3位 2位 3 彦根城 3位
4 渡辺麻友 4位
5 忍たま乱太郎 7位
6 小日向文世 7位
7 指原莉乃 12位 3位 8 学童保育所 12位 5位 9 介護福祉士 13位
10 ケアマネージャー 21位
11 滋賀県 26位
12 AKB48選抜総選挙 26位 6位 13 山本彩
4位 14 保育園問題
6位 15 いじめ問題
12位 16 栄養士
14位 17 名探偵コナン
22位
ブログ:12カテゴリが30位以内(うち6カテゴリが10位以内) Twitter:9カテゴリが30位以内(うち6カテゴリが10位以内)
30位以内のカテゴリ数合計:17カテゴリ ブログ&Twitter共に30位以内:4カテゴリ
以下、Wikipediaより抜粋
-----------------------------------------------
山本耕史
-----------------------------------------------
山本 耕史(やまもと こうじ、1976年10月31日[2] - )は、日本の俳優、歌手。東京都新宿区出身[1]。
身長179cm、体重65kg、血液型はB型[2]。妻は女優の堀北真希。
来歴
0歳の頃から赤ちゃんモデルとして活動[1][3]。
1987年、10歳の時に日本初演の『レ・ミゼラブル』で少年革命家ガブローシュを演じ[4]舞台デビュー[1][5]。なお、同作では16年後の2003年に初演の時から念願だったマリウス役を務めている[4]。
1993年、16歳の時に連続ドラマ『ひとつ屋根の下』(フジテレビ)で車椅子の少年・文也を演じ一般に名前が浸透する[1][3]。
1995年、『さんかくはぁと』(テレビ朝日)で連続ドラマ初主演。
1996年、『花より男子』のテレビアニメシリーズおよび劇場版アニメに声優として出演。花沢類役をつとめる。
1997年、『IMAGINE』でCDデビュー。
1998年、21歳の時にブロードウェー・ミュージカル『RENT』の日本初演でマークを演じたことが、役者観が変わるほどの大きな転機となり[5]海外にも目を向けるようになる[6]。パックンに英語を習い、23歳の時に3か月間ニューヨークで暮らす[6]。
2004年、NHK大河ドラマ『新選組!』に出演。局長近藤勇を支え続ける土方歳三を演じ、人気を博す[3]。2000年の三谷幸喜脚本・演出のオケピ!出演時に、三谷に土方役に見初められての抜擢だった。視聴者からの多くの要望により、2006年には大河ドラマとして初の続編スペシャルドラマ『新選組!! 土方歳三 最期の一日』が「NHK正月時代劇」として制作され、再び土方歳三役として主演を務めた[7]。さらに2015年には連続テレビ小説『あさが来た』で9年ぶりに土方歳三を演じている[8]。これはNHKからの熱烈な要請を受けたためであり、大河ドラマと朝の連続テレビ小説で同一人物が同じ役を演じるのは極めて異例のことであった[8]。
2005年、大河ドラマ『新選組!』で演じた土方歳三での視聴者の反響を受け[要出典]、『第56回NHK紅白歌合戦』の白組司会に抜擢された。
2006年、DonDokoDonの山口智充がMCをつとめる日本テレビ・水曜深夜番組『MusiG』(2006年4月 - 2007年9月)にレギュラー出演、「今週の丸投げ」コーナーで毎回出されるお題に基づき、山口と即興でギターセッションをしながら曲を作っている。また、山口、佐野元春と「The Whey-hey-hey Brothers」として、1枚のシングルを発売した。
2010年、Team YAMAMOTO presents ロックミュージカル『GODSPELL ゴッドスペル』で初めて演出を手掛け、また自ら主演を務める。
-----------------------------------------------
楽しんご
-----------------------------------------------
楽しんご(たのしんご、1979年3月15日 - )[1]は、日本のお笑い芸人、整体師。
来歴
芸能界デビュー前
神奈川県横浜市保土ヶ谷区に生まれる。素人時代から『笑っていいとも!』やワイドショーの再現ドラマ等多数のテレビ番組に出演していた。高校時代に出演した『嗚呼!バラ色の珍生!!』(日本テレビ)では風見慎吾(現・風見しんご)と共演し「Wシンゴ」と称されたこともある。また、関ジャニ∞がやっている「ジャニ勉」という番組で、村上信五と一緒にドドスコなどをやりWシンゴとここでもいわれた。
中学時代に、なよなよした立ち居振る舞いから不良グループに目を付けられていじめに発展。その内容は、金銭を要求されて、それが出来なければカッターで唇を切られたり(その時の傷は卒業アルバムでも確認できる。後に手術によってこの傷は無くなっている)、焼却炉で熱せられた鉄の棒を胸に押し付けられる(その時の傷は今も残っている)といった苛烈なもので、友達やクラス全体からも無視されていた。自殺目的でリストカットを何度か行った。一方、両親には心配を掛けまいといじめのことは黙っており、リストカットの傷を隠す包帯も学校で怪我をしたとごまかしていた。この辛い過去を明かした理由として、自分のギャグを見て笑っている自分と同じ境遇にあっている子に、親や先生等の大人に相談して自分みたいになって欲しくないという思いが込められている。また、学生時代には女装するために公衆トイレで化粧をしたこともあった[3]。
俳優時代
いじめっ子を見返す目的で高校生の時から様々なオーディションに応募していたが、卒業後は石油会社に就職した。そして夜はゲイバーでもアルバイトをしていた。更には、完全に女性になりすましてキャバクラにも勤務し、その店のナンバーワンにまで登りつめたこともあった。五反田と横浜のキャバクラを掛け持ちし、五反田では「あや」、横浜では「トメ子」の源氏名で働いていた[4]。
20歳の時にアクション系俳優事務所の「ワイルドシング」に所属し、Vシネマなどに出演。アクション映画『龍王 獣たちの掟』の「福建省から来た不法入国者」役、北朝鮮に拉致された宇宙人役など演じていた[5]。当初は本名の「佐藤信吾」名義で活動していたが、後に「可愛玲(かわい れい)」に改名している[6]。その後も日本人の役が貰えず、また男性的な演技も苦手で、映画「殴者」の撮影中に監督の須永秀明から「ガキがすねてるんじゃねえんだぞ」と叱責され、焦っていたときに見た、オリエンタルラジオの「武勇伝」のネタに衝撃を受け、お笑い界を志す[7]。
お笑い芸人時代
2006年、ピン芸人「しんご☆くん」としてケイダッシュステージ所属。命名は事務所の先輩にあたるはなわである。同年、事務所ライブである「裏ケイダッシュライブ」にて舞台デビュー。
2007年に『エンタの神様』の打ち合わせの現場で、番組プロデューサーの五味一男によりすぎはら美里と出会い、「姉弟」という設定で番組内での限定ユニット「Mint姉弟」(ミントきょうだい)を組み、「乙女な弟」としてボケを担当。「僕、やっちんちん」というフレーズで人気を博し、同番組に6回出演。なお、Mint姉弟としては、2009年中にはM-1グランプリ出場や、テレビショッピング専門チャンネル・QVC出演などの活動もある。活動は順調であったが、体調を崩し、しばらく休業する[7]。
2008年中にケイダッシュステージを退社、フリーで活動。同時に「画数がいい」という理由で芸名を「しんご」に改名。その後、2009年に入ってからは「楽しんご」の名前でテレビ、ライブ等に出演している。R-1ぐらんぷり2009では3回戦まで進出(この時は「しんご」の名前で出場)。2009年6月から「あらびき団」に定期的に出演する様になったのを機によしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属した[7]。
2010年7月19日、お笑いフェス「LIVE STAND 2010」のKAWAKI-MON STAGEにて、「あらびき団ダンスフェス in LIVE STAND」で優勝したことで、『あらびき団』以外の露出が増加。直後にはオリコン調べによる「第2回ネクストブレイクを期待するお笑い芸人」アンケートで3位に選ばれる[8]。
R-1ぐらんぷり2011で準決勝進出。
2011年6月15日、女性エンターテインメント集団あやまんJAPANとのコラボユニット「楽しんごとあやまんJAPAN」による楽曲「ドドスコぽいぽいのうた」(ダウンロード配信のみ)で歌手デビュー[9]。同年7月期のTBS系金曜ドラマ『美男ですね』で連続ドラマデビュー[10]。
2011年12月1日に発表された『2011ユーキャン新語・流行語大賞』で、彼のギャグ「ラブ注入」がトップテン入りを果たした。
-----------------------------------------------
彦根城
-----------------------------------------------
彦根城(ひこねじょう)は、日本の滋賀県彦根市金亀町にある日本の城である。江戸時代および1869年(明治2年)の版籍奉還後から1871年(明治4年)の廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は国の特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
概要
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守[1]と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟[2]が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。
天守が国宝指定された五城の一つに数えられる[3]。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。
滋賀県下で唯一、城郭建築が保存された(歴史・沿革を参照)。
-----------------------------------------------
渡辺 麻友
-----------------------------------------------
渡辺 麻友(わたなべ まゆ、1994年3月26日 - )は、日本のアイドル、女優。女性アイドルグループAKB48チームBのメンバーである[4][5]。
愛称は「まゆゆ」。埼玉県出身。プロダクション尾木所属[4][5]。
略歴
デビュー前
小学校6年生(2005年度)の時期は引きこもりに近かったと告白している。食事中も家族と会話せず、学校では「クラスの幽霊」で、帰宅したらパソコンに直行しインターネットでアニメを観たり、イラストを描いたりと、本人曰く「二次元にのめり込んでいた」。そんな生活が2年間続いていた。AKB48の存在を知ったのもインターネットがきっかけだった。母親は初め芸能界入りに難色を示していたが、これをきっかけに娘が外に出て活発な子になるかもしれないと思い、賛成する[6]。
2006年
2月、『第二期AKB48追加メンバーオーディション』に落選[7]。
12月、『第三期AKB48追加メンバーオーディション』に合格[7]。
2007年
4月8日、AKB48劇場でのチームB 1st Stage「青春ガールズ」初日公演において、旧チームBの一員として公演デビュー[7][8][9]。
7月18日、4thシングル「BINGO!」で、旧チームBメンバーとして初(柏木由紀、平嶋夏海と同時)の選抜メンバーになる[10][11][12]。
2009年
1月28日、当時同じチームBのメンバーであった平嶋、多田愛佳(現・HKT48)、仲川遥香(現・JKT48)とともに結成されたユニット「渡り廊下走り隊」(のちの「渡り廊下走り隊7」)がシングル「初恋ダッシュ/青い未来」でCDデビュー[13]。
6月23日から7月7日にかけて投票が実施された『AKB48 13thシングル選抜総選挙「神様に誓ってガチです」』では4位となり、メディア選抜に入る[14][15]。
2010年
5月25日から6月8日にかけて投票が実施された『AKB48 17thシングル選抜総選挙「母さんに誓って、ガチです」』では5位となり、メディア選抜に入る。6月9日に開催された開票イベントでのスピーチでは涙を流しながら「今のこの現状には満足していません」とコメントする[16]。
2011年
5月13日、1st写真集『まゆゆ』(集英社)が発売された。5月23日付のオリコン本ランキングのBook(総合)部門では女性ソロ写真集で最高位となる3位を獲得[17]。
5月24日から6月8日にかけて投票が実施された『AKB48 22ndシングル選抜総選挙「今年もガチです」』では5位となり、メディア選抜に入る[18]。6月9日に開催された開票イベントでのスピーチでは前年と違い、笑顔で「こういう順位はただの数字なので、こういう数字に私は左右されません。こんなただの数字には左右されずに、私はこれからも自分を信じ、皆さんを信じ、自分の決めた道を歩んでいきます」とコメントする[19]。
5月24日から6月8日にかけて投票が実施された「AKB48香港選抜総選挙」では2位となる[20]。
6月12日、台湾・台北市万華区西門町に開店したAKB48オフィシャルショップのセレモニーに参加する[21]。
12月13日に開催されたテレビアニメ『AKB0048』声優公開オーディションに合格し、声優選抜になる[22]。
2012年
1月13日から放送の深夜ドラマ『さばドル』(テレビ東京)でドラマ初主演[23]。
2月29日、『さばドル』の主題歌「シンクロときめき」でソニー・ミュージックレコーズからソロデビューする[24]。AKB48では4人目のソロデビューとなる[注 1][25]。
3月、トライ式高等学院(サポート校)を通じて提携先の通信制高校を卒業[26][27]。
4月26日、『AKB0048』声優選抜メンバー9名による新ユニット「NO NAME」の結成が発表される。同作の主題歌「希望について」と「夢は何度も生まれ変わる」を歌う[28]。
5月22日から6月5日にかけて投票が実施された『AKB48 27thシングル選抜総選挙』では2位となり、選抜メンバーになる[29]。6月6日に開催された開票イベントでのスピーチでは「もし来年(2013年)も総選挙があるのなら、私は1位を取りたい。まだまだ未熟者かも知れないが、来年までには必ずセンターになれるような人になりたいと思う」とコメントする[30]。
8月24日、『AKB48 in TOKYO DOME 〜1830mの夢〜』初日公演において、チームAに異動することが発表される[31]。
11月1日、チームAに異動[32]。
11月2日、チームAウェイティング公演のセンターとして新チームでの活動を開始する[33]。
11月21日、3rdシングル「ヒカルものたち」発売。オリコン週間シングルランキングで、初登場1位を記録[34]。
2013年
2月20日に発売の30thシングル「So long !」でAKB48シングルにおける初のセンターポジションを務める[35]。
5月21日から6月7日にかけて投票が実施された『AKB48 32ndシングル選抜総選挙』では3位となり、選抜メンバーになる[36]。6月8日に開催された開票イベントでのスピーチでは、「どのメンバーよりも自分自身をAKB48にささげてきた自信があるので、これからもその気持ちを胸に、この第3位という順位は、まだ上を目指していけるということだと思いますので、その希望を胸に頑張ってまいりたいと思います。来年の総選挙は、一番最後に名前が呼ばれたらいいなと思っています」とコメントする[37]。
2014年
2月24日、Zepp DiverCityで行われた「AKB48グループ大組閣祭り〜時代は変わる。だけど、僕らは前しか向かねえ!〜」において、チームBへの異動が発表される[38]。
4月21日、この日千秋楽を迎えたチームA「ウェイティング公演」でチームAメンバーとして最後の劇場公演に出演する[39]。
4月28日、この日初日を迎えたチームB 6th Stage「パジャマドライブ」公演で再びチームBのメンバーとしての劇場公演への出演を開始する[40]。
5月21日発売の36thシングル「ラブラドール・レトリバー」において、AKB48シングルにおける自身2度目の単独センターポジションを務める[41]。
6月7日に開票イベントが開催された『AKB48 37thシングル選抜総選挙』において、当時としては選抜総選挙史上最多となる15万9854票を獲得し、前年1位となった指原莉乃(HKT48)を抑え、初の選抜総選挙1位となる[42]。AKB48のシングルにおける単独センターポジションを務めるのは3作目で、ここまで6回開催されたすべての選抜総選挙においてTOP7にランクインし続けている唯一のメンバーとなる[42]。また中華人民共和国の新聞『新京報』で、得票した15万9854票のうち、約3万5000票余りは同国のファンが投票したと報じられる[43]。
9月3日、『The Beauty Week Award 2014 ザ ベスト オブ ビューティー』ロングヘアスタイル部門を受賞[44]。個人で賞を授与されるのはこれが自身初となる[45]。
11月26日発売のAKB48の38thシングル「希望的リフレイン」において、宮脇咲良とともに初のダブルセンターを務める[46]。
2015年
4月14日から放送のテレビドラマ『戦う!書店ガール』(関西テレビ)で稲森いずみとのダブル主演で、ゴールデン・プライム帯の連続ドラマで初めて主演を務め、主題歌「出逢いの続き」も担当した[47][48]。6月9日に放送された最終回では、初めて結婚式場のチャペルで本格的なウエディングドレス姿を披露する[49]。AKB48在籍中のメンバーがゴールデン・プライム帯の連続ドラマに主演するのは前田敦子が2011年7月期の『花ざかりの君たちへ〜イケメン☆パラダイス〜2011』(フジテレビ)に主演して以来2人目[50]。
5月19日から6月5日にかけて投票が実施された『AKB48 41stシングル選抜総選挙』では3位となり、選抜メンバーになる[51][52]。
2016年
5月31日から6月18日にかけて投票が実施された『AKB48 45thシングル選抜総選挙』では2位となり、選抜メンバーになる[53]。
-----------------------------------------------
忍たま乱太郎
-----------------------------------------------
『忍たま乱太郎』(にんたまらんたろう)は、1993年4月10日から1994年3月19日まではNHK総合テレビで、同年10月3日以降はNHK Eテレで、放送されているテレビアニメ作品。略称は「忍たま」。
概要
尼子騒兵衛の忍者ギャグ漫画『落第忍者乱太郎』が原作。アニメ化に際し、原作題名の「落第」という言葉が、放送局であるNHKでは放送コードに触れるため、「忍者のたまご」、略して「忍たま」に変更された。新聞のテレビ欄では「忍たま」または「忍玉」と表記されることがある。
字幕放送を実施。乱太郎の台詞は黄色、きり丸の台詞は水色、しんべヱの台詞は緑色、その他の人物の台詞は白で表示される[2]。2008年3月31日から本格的にハイビジョン制作へ移行した。
2012年に放送20周年を迎えた。NHKのアニメ作品の中では最長寿作品であり、同年に放送された第20期第88話、第89話では「おじゃる丸15th 忍たま乱太郎20th 記念企画」として、二番目の長寿作品である「おじゃる丸」とコラボ企画を行った(但し、おじゃる丸の登場人物が出演したというわけではなく、乱太郎達がパロディネタを披露した程度)。同じ放送日のおじゃる丸でも同じ企画が行われた。
子供向けアニメとしては異例と言えるほど女性からの人気が高く、劇場版第一弾の公開時は、観客の8割が女性客だった[3]。特に大人の女性のファンが多く、朝日小学生新聞の編集部によれば「以前は子供がピョンピョン跳び回るイメージでしたが、作画が変化し、内容もシビアなシーンが盛り込まれた。特に、登場する先生達がキラキラとイケメンになっているのが大きい」とのこと[4]。
略歴
1993年4月10日 - NHK総合テレビ 土曜18:10枠のアニメ(現:NHK Eテレ 土曜17:30枠のアニメ[5])として放送開始。
1994年10月3日 - 放送時間を10分に短縮し(1週間単位では50分に延長)、NHK Eテレ(当時はNHK教育テレビ名義)において、母と子のテレビタイム(現:Eテレキッズ)枠で放送開始。主題歌『勇気100%』担当歌手が光GENJIから光GENJI SUPER5に変更。ユキ役の國府田マリ子がユキ役を降板。以降8期まで丹下桜がユキ役を担当した。
1994年11月17日(第2期)- 斜堂影麿が初登場。
1995年4月(第3期) - 利吉や伊賀崎孫兵の役を初登場時から担当していた優希比呂が利吉、伊賀崎孫兵役を降板。利吉は岡野浩介、伊賀崎孫兵は千葉一伸が後任となり、現在に至る。
1996年2月26日(第3期)- 5年生が初登場(当初は不破雷蔵、鉢屋三郎のみ)。
1996年6月 - 劇場版アニメ第一弾『映画 忍たま乱太郎』が公開。
1996年7月23日(第4期)- 小松田秀作が初登場。
1997年10月(第5期) - 大木雅之助役を初登場時から担当していた高木渉が大木雅之助役を降板。子安武人が後任となり、現在に至る。
1997年11月5日(第5期)- 1年い組が初登場(当初は伝七のみ)。
1998年2月(第5期) - 風鬼や黒古毛般蔵などの声を初登場時から担当していた笹岡繁蔵が降板。大友龍三郎が後任となり、現在に至る。笹岡は降板後の同年8月に死去。
1998年2月4日(第5期)- ドクたまが初登場。
1998年4月21日(第6期)- 六年生が初登場(潮江文次郎、善法寺伊作、食満留三郎を除く)。
1999年(第7期)- 1年ろ組が初登場(伏木蔵、平太を除く)。
2001年4月(第9期) - 本編の作画方式をセル画からデジタル制作に移行。2期以降ユキ役を降板していた國府田マリ子がユキ役に復帰。現在に至る。
2001年6月- しんベエ 喜三太 立花仙蔵による「厳禁シリーズ」が開始。
2002年4月(第10期) - 主題歌『勇気100%』担当歌手が、第2期放送開始から約7年半続いた光GENJI SUPER5からYa-Ya-yahへ変更され、OPアニメーションもCGを組み合わせたものに変更された。ヘムヘムの役を放送開始時から担当していた松尾銀三が2001年8月に死去したため、島田敏が後任となり、現在に至る。
2002年5月12日 - 放送開始10周年を記念したイベントがZepp TOKYOで開かれ、乱太郎・きり丸・しんべヱ・山田伝蔵の着ぐるみのほか、主題歌を歌っているYa-Ya-yahのメンバー(薮宏太・赤間直哉・鮎川太陽・山下翔央・星野正樹)が出演し、ショーや歌を披露した。
2003年4月 - サブタイトルアニメーションを一新。馬飼野康二による新BGMが使用されるようになる。
2004年4月(第12期)- 庄左ェ門の役を放送開始時から担当していた摩味が降板。また、喜三太の役を初登場時から担当していた鈴木富子が2003年7月に死去したため、庄左ェ門役は東さおりが、喜三太役は杉本沙織が後任となり、現在に至る。
2004年5月19日 - レギュラー放送1000回を達成した。
2006年7-8月 - NHK衛星第2にて最初期の回を「BS夏休みアニメ特選」枠内にて放送した。
2007年4月2日(第15期) - 斉藤タカ丸が初登場。
2007年5月4日(第15期) - 放送開始15周年を記念したスペシャルアニメ『忍たま乱太郎 15年スペシャル“ドクタケ温泉の段”』を放送。ハイビジョン方式で制作されたが、第15期の通常回は全て4:3の従来の形式で制作された。
2008年4月(第16期) - ハイビジョン制作に移行。OP、サブタイトルアニメーションも一新された。ただし、再放送(第15期までの作品)はオープニング以外4:3となっている。
2009年4月(第17期) - 主題歌担当歌手がHey! Say! JUMPに変更される(OPアニメーションは変更されず)。また、再放送の本編において両サイドに付けられていた灰色の帯を廃止し、黒無地のみとなった。
2009年10月12日-23日・同30日-2010年5月28日までの毎週金曜日 - 人形劇「連続人形活劇 新・三銃士」放送のため、放送が休止。
2010年1月13日 - 東京ドームシティ シアターGロッソで初の本格ミュージカル『忍たま乱太郎』が上演された。
2010年4月(第18期) - 主題歌担当歌手がNYCへ変更。OPアニメーションもマイナーチェンジした。
2011年3月 - 劇場版アニメ第二弾『劇場版アニメ 忍たま乱太郎 忍術学園 全員出動!の段』が公開[6]。2012年1月2日に地上波初放送された。
2011年3月 - サブタイトルアニメーションを変更。
2012年4月 - 主題歌担当歌手がSexy Zoneへ変更。OPアニメーションも20周年を記念したものに一新された。映画「忍術学園 全員出動!の段」のBGMが使用されるようになる。
2013年3月20日 - 放送開始20周年を記念したスペシャルアニメ『忍たま乱太郎 20th スペシャルアニメ 忍術学園と謎の女これは事件だよ〜!の段』がNHK総合にて放送(NHK総合での新作アニメ初回放送は第1期放送以来19年振りとなる)。同年12月31日にNHK Eテレにて再放送された。このエピソードより学園長の役を放送開始時から担当していた辻村真人が降板。浦山迅が後任となり、現在に至る。
2013年3月29日 - 忍たま乱太郎20年スペシャルラジオとして、忍たま乱太郎がラジオ番組として初めて放送された[7]。
2014年3月10日-21日 - アニメ「ナンダカベロニカ」放送のため、放送が休止。
2015年3月30日(第23期) - サブタイトルアニメーションとBGMを一新。OPアニメーションもマイナーチェンジした。
2015年5月4日 - 山田伝蔵の役を放送開始時から担当していた大塚周夫が2015年1月に死去したため、周夫の長男である大塚明夫が後任となり、現在に至る。
2016年2月11日、3月5日 - NHK BSプレミアムの科学番組「コズミックフロント☆NEXT」とのコラボレーション番組『忍たま乱太郎の宇宙大冒険 with コズミックフロント☆NEXT』がNHK総合にて放送された[8]。
2016年4月4日(第24期) - 主題歌担当歌手がジュニアBoysへ変更。
-----------------------------------------------
小日向 文世
-----------------------------------------------
小日向 文世(こひなた ふみよ、1954年1月23日[1] - )は、日本の俳優。
北海道出身[1]。ファザーズコーポレーション所属[1]。東京写真専門学校(現専門学校東京ビジュアルアーツ)卒業[3][4]。既婚。
来歴
高校卒業後にデザインの専門学校に通っていた18歳の時、スキーで複雑骨折して骨盤や大腿部の筋を移植するなど2年間で8回の手術をし、1年を棒に振る[5]。そんな自分があまりにもかわいそうになり、これだけ痛い思いをしたのだから後は好きなことをやろうと写真の専門学校に通い始める[5]。しかしそれも何か違うと感じ、専門学校卒業後、22歳で俳優を目指すことを決意[5][6]。初めは文学座に挑戦するが失敗[7]。その後は中村雅俊の付き人を務め[3][6]、1977年、23歳で串田和美が主宰する「オンシアター自由劇場」に入団する[3][5][6]。1996年の解散まで19年間在籍し[3]、劇団の看板女優吉田日出子の相手役を務めた[4]。
39歳で同じ劇団の女優だった11歳年下の女性と結婚し[5][8][9][7]、41歳で長男をもうける[7]も、42歳の時に劇団が解散[5][10]。その後は映画・テレビドラマなど映像分野での活躍を切望するも端役が多く、5年間で連続ドラマの出演作は1本のみ[10]。事務所に給料の前借りをしてなんとか食いつなぐ借金生活に陥る[8][10][11]。2001年の47歳の時、三谷幸喜演出の舞台『オケピ!』にとぼけたピアニスト役で出ている小日向を見たフジテレビのプロデューサーによって木村拓哉主演のフジテレビ月9ドラマ『HERO』にメインキャストの1人として起用され[10][12]レギュラー出演したところ、ドラマが全話視聴率30%超えを記録する大ヒットとなり、それを機に仕事が途切れなく入るようになる[9][10]。
フジテレビ系列の単発オムニバスドラマ『世にも奇妙な物語2001年春の特別編』の一話「厭な子供」にて主演を果たす。映画では2004年の映画『銀のエンゼル』で主演を、連続ドラマでは2008年1月期の関西テレビ制作・フジテレビ系『あしたの、喜多善男 - 世界一不運な男の、奇跡の11日間 -』で主演を務めた。
2016年1月9日より日本テレビ『ぶらり途中下車の旅』に、藤村俊二(2代目ナレーター)の後を引き継いで3代目ナレーターとして登場した[13]。
人物
3人兄弟の末っ子[4]。
高校では美術部に所属し、主に油絵を描いていた[7][12]。
家族への愛情が深く、大学で演劇部に所属している長男、次男とはハグをかわし、そして妻とは毎日「行ってきます」のキスを欠かさない[12]。
-----------------------------------------------
指原莉乃
-----------------------------------------------
指原 莉乃(さしはら りの、1992年11月21日 - )は、日本のアイドルであり、女性アイドルグループHKT48チームHのメンバーである[2]。また、尾崎充とともにHKT48劇場支配人を務める。AKB48の元メンバー。 大分県大分市出身。太田プロダクション所属。シングル選抜総選挙で、歴代最多の3回センター(得票数1位)を獲得している。
略歴
2007年
AKB48 第二回研究生(5期生)オーディションに合格し、芸能プロダクション会社AKSの所属タレントとなる。
2008年
3月1日にチームB 3rd Stage「パジャマドライブ」公演で、バックダンサーとして初舞台を踏んだ。
8月2日に正規メンバーに昇格し、チームBへ正式に加入。
10月22日にリリースされた「大声ダイヤモンド」で初めて選抜メンバー入り。
2009年
2月8日から開催されたチームB 4th Stage「アイドルの夜明け」公演では、ユニット曲「愛しきナターシャ」のメンバーである片山陽加、田名部生来と3人でユニット名「チーム狩人。」とし、メンバー各人が「ドリアン指原」[3]、「ディーバスセニョリータ片山」、「グロリアス田名部」と名乗り活動した[要出典]。
6月から7月にかけて実施された『AKB48 13thシングル選抜総選挙「神様に誓ってガチです」』では27位でアンダーガールズ入り。
8月23日に開催された『読売新聞創刊135周年記念コンサート AKB104選抜メンバー組閣祭り』の夜公演において、10月よりチームAへの異動が発表された(実際にチームAへ異動になったのは2010年7月27日)。
2010年
3月25日に行われた『AKB48 満席祭り希望 賛否両論』の夜公演において、太田プロダクションから移籍打診があったことが発表され、当時所属していたAKSから移籍。
4月30日から、指原莉乃オフィシャルブログ「指原クオリティー」を始めた。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 17thシングル選抜総選挙「母さんに誓って、ガチです」』では19位で総選挙初の選抜入り。「涙サプライズ!」以来の選抜に復帰。
8月28日、指原本人には知らされずに「ヘビーローテーション」のテレビコマーシャルに挿入する形で、「指原莉乃 改め さしこ」という改名告知が行われた。『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』出演中の名札も「さしこ」名義のものであり、AKB48公式プロフィールおよび太田プロダクション公式プロフィールも「さしこ」に変更された。しかし、翌8月29日に改名は冗談であり、単なる企画であったと発表された[4]。名札、プロフィールを変更するまでの徹底ぶり、本人のブログ記事[5] などを受け、インターネットニュースなどでは実際に「さしこに改名する」との報道がなされた[6][7]。28日は戸惑っていたが、29日になってブログで経緯について説明した[8][9]。
9月から10月にかけて『めちゃ×2イケてるッ!』の新メンバーオーディションにAKB48を代表して参加したが、3次審査で落ちた[10]。
10月13日発売の『月刊ヤングマガジン』(講談社)2010年11月号より、指原を主人公にした4コマ漫画「うざりの」[注 1] が連載開始。連載開始にあたり、2010年10月号(2010年9月8日発売)で指原のプチグラビアとインタビューが掲載された[11]。
12月4日午前0時から24時間以内に、ブログ更新100回に挑戦し、アメーバブログランキング1位を目指すことが同年12月3日放送の『週刊AKB』で発表され、12月4日23時55分に目標の100回更新を達成し、翌12月5日更新のアメーバブログランキングでは当日のアクセス数3,500万ページビューを達成し歴代1位となった[12][13]。
2011年
1月12日(1月11日深夜)、AKB48メンバー初の単独冠番組『さしこのくせに〜この番組はAKBとは全く関係ありません〜』がTBSと大分放送で放送開始された。
1月21日に開催された『AKB48 リクエストアワーセットリストベスト100 2011』において、大島優子・北原里英・横山由依と4人で新ユニット「Not yet」を結成し、3月16日に「週末Not yet」でデビュー[14]。
5月20日、再び『週刊AKB』の企画で、前回の倍となるブログ更新200回に挑戦。同日午前9時よりチャレンジを開始し、翌21日午前8時53分に200記事更新を達成した[15]。200記事目には2万以上ものコメントが寄せられ[16]、また20日から21日にかけてのアクセス数は9,100万ページビューを超え、記事についたコメント数も81万件を超えた[15]。これは当時のAmebaにおける史上最大の記録となった[15]。ギネス世界記録が「24時間での個人ブログへの最多コメント」に認定した[17]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 22ndシングル選抜総選挙「今年もガチです」』では9位で、メディア選抜に選ばれる[18]。
10月5日から『笑っていいとも!』の水曜日レギュラーとして出演[19](2012年4月から月曜日レギュラー[20])。2014年3月31日の同番組最終回スペシャルまでレギュラーで出演[21]。
2012年
1月8日に幕張メッセで開催された「上からマリコ」劇場盤発売記念大握手会において、avex traxから、自身が主演するドラマ『ミューズの鏡』の主題歌でソロデビューすることが発表された[22][23]。
2月22日、ファッションブランド「サマンサタバサ」のイメージモデルである「サマンサミューズ」に加わることを発表した[24]。
4月18日、大分市観光大使に就任[25]。
5月2日、ソロデビューシングル「それでも好きだよ」を発売し[26]、オリコンデイリー1位を獲得。
5月4日の18時から24時間以内にGoogle+へ300回投稿することが、当日の読売新聞朝刊の全面広告、当日の朝のGoogle+投稿[27]、当日放送の『週刊AKB』によって発表され、5月5日17時3分に300投稿を達成した[28][29]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 27thシングル選抜総選挙』では4位に入り、選抜メンバーに選ばれる[30]。
6月16日(6月15日深夜)放送の『AKB48のオールナイトニッポン』において、『週刊文春』(2012年6月21日号)によって過去に元ファンの男性と交際していたと報じられたことに関して、事実でないことも記載されていると語ったが、その男性が友人であったことは認め、ファンや関係者に向けて謝罪した[31]。プロデューサーの秋元康は「明日[注 2]から」HKT48に移籍するように命じた[32]。
6月25日、自身がプロデュースするアイドルイベント『指原莉乃プロデュース 第一回ゆび祭り〜アイドル臨時総会〜』を日本武道館で開催[33]。
7月5日、HKT48劇場で開催された『チームH 1st Stage「手をつなぎながら」』公演にHKT48として初出演し[34]、公演中にチームHに所属することも発表された[2]。
7月22日、『FNS27時間テレビ 笑っていいとも!真夏の超団結特大号!!徹夜でがんばっちゃってもいいかな?』で、「指原たった1人の残念ライヴ」を開催したが[35]、途中でドッキリ企画としてAKB48からかつて指原の所属したチームA・チームBのメンバーと笑福亭鶴瓶扮するツタンカーメンを模した「ツルベカーメン」が登場した[36]。
7月23日、チームAメンバーとしてAKB48劇場での最後の公演となった、特別公演『指原莉乃 壮行会』が開催された[37]。
8月12日、AKB48劇場で開催された「HKT48チームH出張公演/AKB48劇場『手をつなぎながら』公演」に出演し、壮行会から約3週間でAKB48劇場のステージに立つことになった[38]。
10月17日、2ndソロシングル「意気地なしマスカレード」を「指原莉乃 with アンリレ」名義で発売し[39]、オリコン週間1位を獲得した。
2013年
4月28日、日本武道館で開催された『AKB48グループ臨時総会 〜白黒つけようじゃないか!〜』最終日の夜公演にて、HKT48劇場支配人を兼任することが発表された[40]。メンバーと劇場支配人との兼任はグループ史上初[41]。これによりHKT48劇場支配人は尾崎充との二人体制となった[41]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 32ndシングル選抜総選挙』では当時の最高獲得票数 150,570票で1位を獲得し、初のセンターポジションに就くこととなった。AKB48の姉妹グループに所属するメンバーが総選挙で1位を獲得するのは初めて[42]。地元・大分市に帰郷した際には市長・釘宮磐(当時)から「15万票なんて私も獲得したことがない」と称えられた[43][注 3]。
5月12日、秋元康からのメールで、SKE48終身名誉研究生松村香織[注 4]のソロデビューをプロデュースし「曲を決めて、アレンジを発注して、指原が歌詞を書く」よう指示されたことが、同日深夜に放送された『AKB映像センター』で発表され[44]、8月16日、『AKB48・2013真夏のドームツアー』ナゴヤドーム公演初日に、予算1万円のためハットからブーツまで『AKB48新聞』で作られた衣装を着た松村によって、指原プロデュース曲「マツムラブ!」が披露された[45]。11月8日、ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー2013において、「最も笑顔が輝いた著名人」に山本裕典とともに選出された[46]。
2014年
1月11日より行われているHKT48のコンサートツアー『HKT48 九州7県ツアー 〜可愛い子には旅をさせよ〜』で、セットリストの考案も担当[47]。
1月29日、雑誌『VoCE』により、 「2013年もっともビューティな人」THE BEST BEAUTY OF THE YEARに選ばれた[48]。
5月30日、自身が主演する映画『薔薇色のブー子』[49]が公開。ロック・シンガーの内田裕也が1985年以来のシングル盤として同年6月12日に発売する同映画の主題歌「シェキナベイベー」(エイベックス)に、内田とデュエット歌唱する形で参加[50]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 37thシングル選抜総選挙』では2位となる[51]。
2015年
5月13日、2012年より3年間務めた大分市観光大使に再任(任期3年)される[52]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 41stシングル選抜総選挙』では最高獲得票数 194,049票を獲得し、2年ぶりに1位となる[53][54]。
6月27日、28日に横浜アリーナで開催された『HKT48全国ツアー 〜全国統一終わっとらんけん〜 ツアーファイナル』において総選挙で公約した水着で公演に出ることを2日間3公演で実行した[55][56]。また、28日の夜公演では、2015年11月公開予定の『DOCUMENTARY of HKT48』の監督を務めることが公表された[57]。
2016年
6月18日、『AKB48 45thシングル選抜総選挙』で渡辺麻友を抑えて史上初となる2連覇を達成した。
8月30日、『BEAUTY WEEK AWARD 2016』のツヤツヤロング部門賞を受賞した。
-----------------------------------------------
学童保育
-----------------------------------------------
学童保育(がくどうほいく)とは、主に日中保護者が家庭にいない小学生児童(=学童)に対して、授業の終了後に適切な遊びや生活の場を与えて、児童の健全な育成を図る保育事業の通称である[1]。法律上の正式名称は「放課後児童健全育成事業」で、厚生労働省が所管する。事業を実施する施設は「学童クラブ」「放課後(児童)クラブ」「学童保育所」等と呼ばれるが、自治体や設置者によって名称が異なる。略称は「学童」。
概要
学童保育は保護者の保育に欠ける児童の安全を守る場であるとともに、学齢期の児童が自立するための成長支援・健全育成を実践する場でもある。「仕事と子育ての両立」が国を挙げて課題となる中で[2]、特に保育所を利用していた家庭にとっては子どもが卒園して小学校に入学しても保護者が安心して就労・介護・病気治療等を継続する上で不可欠の制度であり、また母親等が小学校入学を機に職場復帰を希望するケースも多いため、地域によっては申請が殺到して待機児童が生じるほど需要が高い。待機になったり生活圏に学童保育施設がなかったりして入所できないと保護者の就労等に大きな不都合が生じるため、「小1の壁」とも呼ばれて社会問題化している。
かつては仕事をもつ親が自主的に父母会や任意団体を結成して学童保育を立ち上げたり、自治体が条例で制度化して直営の学童保育を実施するケースが多かったが、学童保育のニーズが増え、内容も多様化するとともに民間参入が盛んになった(詳細は「設置・運営の形態」節を参照)。
名称
学童保育施設の統一的な呼び名はなく、地域や自治体、設置主体によって様々である。主な呼び名には「学童クラブ」「放課後(児童)クラブ」「学童保育所」「留守家庭児童会(室)」「児童育成会(室)」などがある。略称として単に「学童」と呼ばれる。東京都板橋区の「あいキッズ事業」のように、学童保育と全児童対策事業(文部科学省管轄)を包括的に実施している例では、学童保育と全児童対策が同じ呼び名という場合もある。また、学童保育の民間参入が進んだ地域では社会福祉法人や株式会社など運営事業者が独自のブランド名を冠している例もある。